テューリンゲン諸邦領

プロイセンバイエルンヴュルテンベルクザクセンメクレンブルク‐シュヴェリンヘッセンバーデンオルテンブルク
テューリンゲンブラウンシュバイクアンハルトリッペ‐デトモルトメクレンブルク‐シュトレリッツワルディック
スカンバープ‐リッペハンザ同盟都市(リューベック・ハンブルク・ブレーメン)エルザス‐ロートリンゲン
ドイツ帝国

テューリンゲン諸邦
Freistaat Thuringen

1547年にザクセン地方のヴェッティン王朝の王家の系譜の分裂の結果、これらの州が生まれました。 年少のアルブレヒト系がザクセン地方を継承し、年長のエルンスト系は、テュ−リンゲン領域を継承して、自分たちの中で何回もそれを細分化しました。 1866年のオーストリア・プロシアの戦争(普墺戦争)では、ザクセン‐マイニンゲンはプロシア側に付き、ザクセンはオーストリア側に付きました。

※遺領は分割相続された。年長のエルンストがザクセン選帝侯となり、北マイセン、南テューリンゲン、ヴィッテンブルクを継承した。もう一人の息子アルブレヒトは南マイセン、北テューリンゲンを継承し、ザクセン公を称した。

(1)ザクセン-ヴァイマル‐アイゼナッハ-- ヴィルヘルム‐エルンスト大公国
  ヴィルヘルム‐エルンスト大公
  歩兵第94連隊と軽騎兵第12連隊の連隊長 

  ザクセン-ヴァイマル‐アイゼナハは、テューリンゲン州で最大の領地を有していました。

サディストで告げ口魔の彼は、ドイツで最も人気の無い王子だった上に、彼の妻が1905年に自殺か出産の影響によるものなのかがはっきりしない不可解な死を遂げている事など良くない噂がありました。彼は再婚して、1923年に亡くなりました。

(2)ザクセン‐コーブルク‐ゴータ公国--

   カール-エドゥアルト --歩兵第95連隊

彼は、歩兵第95連隊及び軽騎兵第9連隊の名義上の隊長でした。

英国ヴィクトリア女王の孫である彼は、いくつかの不運な選択をせざるを得ませんでした。
15歳の時に
オルバニー公の後を継ぐためにイギリスからドイツに渡る事を選択します。当時イートン校に在学中であった彼を退学させてまでドイツに送り出した人物こそヴィクトリア女王でありました。更に、伯父アルフレッド・アーネストの他界により、弱冠16歳でザクセン=コーブルク=ゴータ公位をも継承することになり彼はカイザーに忠誠を誓い、第一次世界大戦でドイツ帝国の将校として戦ったため、彼のイギリスでの爵位と身分は剥奪され、その後、筋金入りのナチス支持者になってしまいます。 

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(3)ロイス-ゲーラ候国--ヘンリー(ロイスグライツの摂政--ロイス-グライツ候国--
   
ヘンリー(1902年誕生のため摂政下に置かれる) 
   第11軍団第38師団歩兵96連隊第2大隊が当候国出身者の部隊
   歩兵第96連隊 第1、第2大隊及び猟兵第4大隊の隊長

   

 

    

(4)シュワルツブルク‐ゾンデルスハウゼン候国; シュワルツブルク‐ルードルシュタット候国
  
フルストガンサービクタ

 歩兵第96連隊第3大隊、歩兵第71連隊と歩兵96連隊第3大隊の隊長

 これら2つの候国は、1909年〜1918年まで一時期統合されました。

    

(5)ザクセン‐マイニンゲン公国-- バーンハート3世

  歩兵第32連隊と第95連隊の連隊長

 彼はカイザーの姉妹であるシャーロットと結婚しています。

(6)ザクセン‐アルテンブルク公国
  
エルンスト2世

歩兵第153連隊の連隊長

彼の妻はスカンバーブ-リッペの姫君でした