プロイセン王国領

プロイセンバイエルンヴュルテンベルクザクセンメクレンブルク‐シュヴェリンヘッセンバーデンオルテンブルク
テューリンゲンブラウンシュバイクアンハルトリッペ‐デトモルトメクレンブルク‐シュトレリッツワルディック
スカンバープ‐リッペ
ハンザ同盟都市(リューベック・ハンブルク・ブレーメン)エルザス‐ロートリンゲン
ドイツ帝国

プロイセン王国【首都】ベルリン
ヴィルヘルム2世 1859年1月27日生~1941年6月4日没

Wilhelm II.Friedrich Wilhelm Viktor Arbert von Preußen
プロイセン王・ドイツ帝国皇帝(在位1888年6月15日~1918年11月28日)

ドイツ帝国の連隊に関する情報と密接に関係するため、ヴィルヘルム2世の家族のことを幾つかの写真で紹介します。

将校用コカルデ 一般兵用コカルデ

カイザ-ヴィルヘルム2世は、生まれつき左腕の方が7センチ程度短
かった為、彼の母親はその事をとても気に病んでいました。上の写真
をご覧ください。サーベルの上に置かれた左手は優雅であり、その点
が目立たないようにポーズをとっています。 

彼は子宝に恵まれ6人の男の子と1人の女の子の父親でもありました。
彼の后(アウグステ・ヴィクトリア)は、その事が原因で周囲の人々から
“まるで牛のようだ”と嘲笑されていたと言われています。 

ヴィルヘルム2世は以下の連隊の最高名誉大佐でした。

( )内地区名は、該当連隊の徴兵区(出身地)名を表示 

近衛軍団。
親衛近衛軽騎兵連隊。
騎馬猟兵第1連隊。
大選帝侯近衛第1連隊(シュレジェン)。
親衛軽騎兵第1連隊。
ヴィクトリア・フォン・プロイセン親衛軽騎兵第2連隊。
1909年から、ヴィルヘルム2世の娘であるヴィクトリア・ルイゼ姫が名誉大佐として隊長に就任。
槍騎兵第13連隊連隊(ハノーファー)。
ドイツ皇帝・プロイセン王ヴィルヘルム2世・フォン・プロイセン―バイエルン槍騎兵第1連隊。

近衛野戦砲兵連隊。

近衛歩兵連隊。
フリードリヒ・ヴィルヘルム4世擲弾兵第2連隊(ポメラニア) 。
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世親衛近衛第8連隊(ブランデンブルク) 。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世近衛第3連隊(東プロイセン) 。
歩兵第145連隊、(ロートリンゲン) 。
カイザー・ヴィルヘルム歩兵第116連隊。(ヘッセン大公)
カイザー・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン歩兵第120連隊( ヴュルテンべルク)。
ドイツ皇帝・プロイセン王ヴィルヘルム歩兵連隊―バイエルン歩兵第6連隊。

イギリス王室第1竜騎兵(1894年~1914年)
ドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世・フォン・プロイセン―オーストリア‐ハンガリー槍騎兵第7連隊
ドイツ皇帝・ヴィルヘルム1世・フォン・プロイセン―オーストリアハンガリー歩兵第34連隊。
《注意》ヴィルヘルム1世の名前は、1888年に亡くなった尊敬する祖父の名誉ために彼が残したものです。
ロシア・サンクト・ペテルスブルク護衛連隊はドイツ皇帝のために1914年までフリードリヒ3世連隊を完全な形で保有していました。
ロシアの第3Pernov擲弾兵連隊。(1914年までフリードリヒヴィルヘルム4世連隊。)
第85ロシアの歩兵連隊Vyborg連隊。(1914年8月1日までドイツの皇帝ヴィルヘルム2世連隊。)
第13ロシアのNarva軽騎兵連隊。(1914年8月1日までドイツ皇帝=プロイセン王ヴィルヘルム2世連隊。)
ポルトガルの第4騎兵連隊。


以下の名誉大佐
皇太子擲弾兵第1連隊(東プロイセン)。
シュレジェン猟兵第6大隊。

イギリス第11軽騎兵(アルバート皇太子の部隊)1911年から1914年まで。
第14ロシアMalorossia 竜騎兵連隊。1914年8月1日までドイツ・プロシアの皇太子連隊。
オーストリア・ハンガリー第13槍騎兵連隊。ドイツ帝国・プロイセン皇太子ヴィルヘルムの連隊(猟兵とKumanier槍騎兵連隊)。

カイザ-ヴィルヘルム2世の長男(フリードリヒ・ヴィルヘルム)は、1882年にポツダムで誕生しました。1888年に彼はプロイセン陸軍で最も若い伍長になっています。 1900年には、10歳の若さで第1近衛歩兵連隊将校(少尉)の辞令を受け、14歳になると彼の人生にとって更に新たなステージが始まります。弟のアイテル王子と共にプレーン(シュレースヴィヒ-ホルシュタインにある都市の名)の寄宿学校(当時あった職業軍人家系の子供たちが軍事教練及び一般教養等を学ぶアカデミー)で4年間学ぶことになります。ホーエンツォレルン家のしきたりによって全ての男子は、他国の養成学校に入学し学ばなければなりませんでした。実のところヴィルヘルム王子自身は、木工旋盤の技師になりたかったようですが、彼の年齢や時代がそのような選択を許すはずもなく、その後ポツダムで将校としての訓練を開始します。1900年の彼が18歳の時には、自分の連隊を実際に指揮するようになります。彼は、自分自身の重要性や才能についてかなり大袈裟な感覚の持ち主だったと云われています。同年中には第1近衛歩兵連隊を任され、1910年には、髑髏の徽章をつけた軽騎兵を指揮しました。当時、彼の女癖の悪さや麻薬(アヘン)の常習者などの悪い噂が絶えることはありませんでした。イギリス外遊での度を過ぎた悪行によって、自分の父親を激高させてしまいます。息子の行動を予測していたかのように、カイザーはヴィクトリア女王から送られた本人確認用の指輪を、御付きの女性連絡員の一人に託していたほどでした。開戦以前から好戦的であった上に全ドイツ人の人気の的だった彼については、開戦前の諺としてよく引用されています。…『私達は剣を持ってのみ日の当たる土地を獲得することができるのであって、それらは、何もせず私達にもたらされるものではない。』 彼は32歳の時に第5軍の司令官(1914年~1915年)になり、33歳の時には、ドイツ皇太子軍集団(1915年~1918年)を指揮しています。 1914年には、アルデンヌの前線に展開するフランス軍を引き付けておく任務を与えられました。 彼は、1916年のベルダン攻撃を担当しているので、軍事的に最もよく知られています。 1915年には、念願かなってドイツ軍最高位勲章プール・レ・メリット(ブルーマックス)を授与されています。 休戦後、オランダに追放の身となった父親の所に身を寄せていました。のちに彼の2人の息子であるヴィルヘルム王子、フーベルトゥス王子と共にドイツに帰国しましたが、ナチスに対しては協力的ではありませんでした。長男ヴィルヘルム王子は、平民の女性との結婚を期に、ホーエンツォレルン家の王位継承権を放棄しています。若きヴィルヘルム王子は、1940年5月にナチスドイツ軍中尉としてフランス国内での作戦中戦闘による負傷が原因で死亡しています。
長男の嫁ツェツィーリエ

メクレンブルク-シュベリン大公女であった彼女の結婚は、お互いの家柄については、全く申し分の無いものであったものの、お互いの結婚生活そのものは、残念なことに必ずしも幸せなものではなかったようです。結婚以前から王子が連隊の友人と一緒に過ごしていることについて不快な気持ちをあらわにしています。その事件は、新婚旅行で彼女が一人で寂しい思いをしている時に起こります。王子の独身の飲み友達の一人が、こともあろうに彼女に対し、王子が『連隊の友人達と比べたら自分の妻は取るに足らない存在である。』と言っている事を彼女に打ち明けてしまったのです。そのような関係にもかかわらず、二人の間には6人の子供に恵まれています。そのうちの一人(アレクサンドリーネ)は、ダウン症の症状があったようです。ツェツィーリエ(英語読みだとセシル)は、かつてホーエンツォレルン家の中で唯一の男性(男勝りの性格)だったと云われています。
カイザ-ヴィルヘルム2世の次男(アイテル・フリードリヒ) 開戦時に彼はドイツ
帝国陸軍近衛歩兵第1連隊の連隊長として指揮を執りました。 1914年の実際
には見せかけだけの戦闘において、彼の勇敢な行為について次のように語られ
ています。
『彼は、攻撃に際し浮き足立つ自分の連隊をドラムを叩いて奮い起こした。』
その後、彼は大佐として近衛歩兵第1旅団を指揮(1914~15)しました、1915年
にはプール・レ・メリット勲章を授与されています。 1916年から健康を害する1918年10月まで第1近衛歩兵師団の指揮官として指揮を執っています。 また
Stalhelm Veterans organization(鉄兜老練兵団)に所属しましたが、ナチスに
対しては非常に非協力的な人物でした。
アイテル・フリードリヒの妻ゾフィー・シャルロッテ
彼女は、オルテンブルクのフリードリヒ・アウグストとエリザベートの長女として誕生し
1906年にアイテルと結婚しますが1926年には離婚しています。子供には恵まれず
(一説によるとアイテルが同性愛者であったと言われている)彼女は、自分の継母
との間に長い確執があったことで、早く結婚して親元から離れた場所で暮らしたいと
願っていたようです。
離婚後彼女は、ハロルド・フォン・ヘーデマンという竜騎兵大尉兼ポツダム警察の
警察官男性と再婚しています。
三男:(アーダルベルト・フェルディナント)彼は1914年初頭には、帝国ドイツ海軍の大佐でした。 彼は艦船の参謀として勤務しています。 開戦時には、下級将校として戦艦ルイポルトでの勤務後、巡洋艦ダンツィヒの艦長になって、最後は、魚雷艇の小艦隊と共にフランダースで終戦を迎えています。

反ナチ主義者として知られ、当時ナチスの恩恵に与っていた父親と相反した
ため、第二次世界大戦中はスイスに移住しています。
アーダルベルトの妻
1891年にザクセン-マイニゲン公国のフリードリヒ王子とリッペ-ベシュターフィールドのアーデルハイド王女の娘として誕生します。1914年にアーダルベルト王子と結婚しますが、彼女は幾つかの精神的問題を抱えており、自分の外見を気にするあまりに、その事が原因でとにかく彼女は、ますます精神的不安を抱えることになります。(ポルフィリン症の一種を罹っていたと云われている。)王子との間には、3人の子供をもうけその内二人は今でも健在です。
四男:(アウグスト・ヴィルヘルム) 参謀将校として戦争を迎えましたが、輝かしい戦歴は全く無く1915年に民間の職業に戻り郡長として終戦を迎えています。
ヒットラーとナチス(SA-Obergruppenfuhrer)の熱狂的な支持者であったもものナチスとの関係に何らかのトラブルが起きたために、第二次大戦中ほとんどの間軟禁下に置かれることになります。 ナチス・ドイツ政権下の政治家であったものの、ルートヴィヒスブルクナチス裁判所によって30カ月の重労働と禁固刑の判決を受け財産の40%が没収されました。 1949年に死亡しています。
アウグストの妻
旧姓アレクサンドラ-ヴィクトリアは、1887年にシュレースヴィヒ-ホルシュタインのグリュックスブルグでフリードリヒーフィルディナンド公爵とシュレースヴィヒ-ホルシュタインのアウグステンブルクのカロリーネ-マチルデ王妃の間に生まれた2番目の公女でした。彼女の母親とアウグステ・ヴィクトリア(カイザーヴィルヘルム2世の妻)は、実の姉妹だったために彼女にとって結婚相手であるアウグストとは、いとこに当たる関係にありました。1908年に王子と結婚しますが、一人だけ男の子を儲け1920年には離婚します。彼女はその後再婚しますが、晩年は、絵画販売などをしながら移動式トレーラーで無料駐車場を渡り歩く生活を送ったそうです。
五男:(オスカー・カール)彼は、近衛連隊の将校であり、開戦時には擲弾兵第7連隊の連隊長を務めています。1915年には、ある種の神経衰弱にかかっていました。 後に親ナチスになって、1958年まで生き延びています。彼の息子オスカーは第二次世界大戦開始直後の2日目の作戦行動中に戦死しています。  彼の母親アウグステ・ヴィクトリアのもとで女官をしていたバッセヴィッツ・レーヴェツォー伯爵夫人イーナ・マリーと恋仲になったもののこれが貴賎相婚になるため父親に反対されますが、1920年に最終的には承認されて二人は正式な夫婦と認められます。
オスカーの妻でイーナ・フォン・バッセヴィッツ(1888年~1973年)
彼女は、カール・フォン・バッセヴィッツ・レーヴェツォー伯爵とマルガレーテ・フォン・デア・シューレンブルグ婦人の娘として1888年に誕生します。王子との結婚式は、1914年の7月31日にベルリン近郊のシュロス・ヴェルヴューにおいて、一般庶民と同様の宗派と形式とで執り行われました。この結婚式は、まさに第一次世界大戦勃発直前の出来事でありドイツ帝国の王家にとっても、運命的な年になったことは言うまでもありません。カイザーの息子達の嫁で唯一王家の出身者ではなかったものの、カイザーにとっては一番のお気に入りだったと言われています。彼女とオスカーは結婚して4人の子供を授かり大変幸せな生活を手に入れています。
六男:(ヨアヒム・フランツ)1914年9月に榴散弾で負傷した彼は、新聞記事で
“王家の犠牲者”として大々的にとりあげられました。 戦時中に父親と不仲と
なり、 1920年に自殺しました。 自殺の原因には、アンハルト公女マリア・アウ
グステと彼との結婚問題や、ギャンブルによる借金によるものだと言われてい
ます。
ヨアヒムの妻マリア・アウグステ
アンハルトのエドワード王子とザクセン-オルテンブルグのルイゼ王女との間に1898年に誕生しました。ヨアヒムとは1916年に結婚し一人の男の子を授かりますが、幸せな結婚生活を送ることはできませんでした。1920年に夫が自殺。マリア・アウグステ・フォン・アンハルトは1926年にヨハネス・ミヒャエル・フライヘル・フォン・ローエンと再婚し1935年に離婚します。
七番目の子供:カイザ-の娘 ヴィクトリア・ルイゼ

親衛軽騎兵第二連隊の名誉大佐。

ヴィクトリアの夫(ブラウンシュバイク公国のエルンスト・アウグスト公)